初代ガンダムは小学校低学年くらいだっただろうか。話の難しさについていけなかった。ロボットアニメとしてドンピシャだったのはトランスフォーマー。話も分かりやすく変形の緻密さが斬新だった。それでも1話たりとも見逃さないというほど入れ込んだわけでもなかった。ダグラムやダンバインなどもデザインが良かったが話は全く覚えていない。ロボット系は所詮少年のためのもので大人が満足いくものではなかった。大学生のときにたまたま見たGガンダム。いろんな意味でヤバかったw 1話でもうロボットアニメは見られない歳になったことを悟った。
それからしばらくしてなにやらエヴァンゲリオンなるものが話題になりはじめた。機体の独特なフォルムに魅力はあったが、既にトドメを刺された大人なボクの触手は動かなかった。エヴァブームの最中コンビニで深夜のバイトをしていたある日、漫画の既刊本がドサッと入ってきた。今ではありえないかもしれないが、暇な深夜のワンオペバイトだったので休憩がてらに読んでみた。この時点でもまだ面白いとまでは思えなかった。さらに時は過ぎて2005年頃にやったCR新世紀エヴァンゲリオン。それまでパチンコ屋などに足を踏み入れたことすらなかったのに、知識もなく連れられて行った場所で運命の暴走モードに出会うw これは原作を見ねばと思い、一気にテレビ版を拝見する。そして結末はなんじゃこりゃ。
意外とこのルートの人は多いんじゃないかと思う。しばらくパチンコもやってみたけれど初代エヴァのクオリティは高かった。他の知らないアニメの台をやってみてもわざわざ原作を見てみようとはならなかった。なんなら1度面白くないという烙印を押した作品だったのに声優や音楽、演出の力を思い知らされた。「動いてよ」というシンジの叫びとともに吠えるエヴァ初号機。迫りくる多様な使徒たち。そして登場人物たちの様々な葛藤。行き着く先が気になったけれど放り投げられた結末。しかしこれがエヴァたらしめた理由だろう。ゼーレやら人類補完計画やら分からないことだらけ。だからこそここまで息の長い作品になったのだと思う。上映ラストランの発表があり、結末を見届ける気持ちにようやくなった。ちなみにこれまで劇場でエヴァを見たことはない。
ラストラン上映2日目の日曜だったが田舎の映画館は閑散としていた。少ない来場客の希望席はかたより、真ん中の少し後方に集中。1つ席を空けたとなりの客のポップコーンの咀嚼音が終始気になった。長丁場にもかかわらず後半にもまだ食っていた。序破Qの振り返りのあとパリの戦闘シーンから始まった。内容はネタバレになるので触れないが、ちょいちょい挟んでくる必要性の分からないレイやアスカの体を強調するアングル。序破Qではなかったのに最後に何故? 初号機の戦闘シーンの中の市街戦のCG感。そしてエンディング。わざとだとしたら庵野氏は観ている者を現実に戻そうとしている? そうはじめから村の生活感のリアリティにむしろ違和感を感じた。どこか現実感のなかったエヴァの世界に現実世界をトレースした村を登場させた。田植えも赤ちゃんとレイのやりとりも、これまでこの作品を見続けていたファンにはボディブローのようではなかったか。物語を終わらせるというよりもエヴァを終わらせる印象が強かった。
正直なところ父子の話にしたところに文句はない。ただシンジの急な精神的成長がどこか見ているものにも強要するかのような、彼ですら出来たのだから大人になれよと言われているようだった。自分がもしエヴァの世界にもっと心酔していて、そして現実に子供がいなかったら直視出来た自信はない。何故ここまでする必要があったのかは分からない。一言でいえば庵野氏が真面目すぎる? 彼こそが見ている者への落とし前をつけたかったのだろう。自分的には物語と現実をつなげる手法は好きではない。
一番良かったのは宇多田ヒカルのエンディングだった。彼女の歌だけがエヴァのループにいてもよいと言っているようだった。終わった物語に浸りつづけることは見る者の権利だ。現実に戻る義務が最初からあるのだから。
果てしなく関係ないけれど、その週明けに更新したキン肉マンが素晴らしかった。なんとなくエヴァの小難しさを引きずっていたものが吹き飛んだ。現実離れした空中での連携技。そして連携したことによる強さの理屈が全くわからないフィニッシュホールド。でもフェニックスとビッグボディすげーとなる。これがマンガだよなとある意味本物の現実に戻されたような感覚だった。ゆでたまごは完全に俯瞰して作品を描いている。反対に庵野氏はシンジと同化していたかのような、そしてこの映画でやっと切り離されたような気がしてならない。