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京都アニメーションの事件についてのコラムに反論する

事が起きてから、さも分かっていたかのように言われても屁理屈にしか聞こえない。そこまで危惧していたことなら何故事前に警笛を鳴らさなかったのか。このタイミングだから広まっただけで彼は以前から指摘をしていたのだろうか。いずれにしても大参事が起きてしまった今では時期尚早。今議論する事柄ではない。

 

全文確認はした。拡散はしたくないので発信者の名前も文章も転記はしない。ざっくり言うと今回の京都アニメーションの事件は自業自得だというコラムが、ある大学教授から発信された。このタイミングで、この被害で寒気がする発言だ。関係者の悲しみの最中にその反論を書く行為も考えものではあるが、京都アニメーションの人々の名誉をこのタイミングで傷つける行為に対して彼を糾弾したいというより、この自業自得だという理屈を覆したい。

 

まずそれを言ったら世の中のすべての職業に恨みを買うリスクはあるだろう。啓蒙的なアーティストやアイドルなどはアニメ以上に高リスクだと考えられる。私も以前事後発信で批難をする考察を書いたことはある。ただ被害者を責める視点ではなく世の中が変わるべきという考えで。

リスク管理はどんな職業にも必要だし、今回の事件も来客予定があった為にセキュリティーを外してしまっていた運の悪さもあった。情報が漏れていたとしたら怖いことだけど。そのことについての検証は必要だろう。

 

本筋に戻る。はたして京都アニメーションの仕事は殺人鬼を生み出すようなものなのか。殺人鬼になるということはその前に苦しみや恨みをはらんでしまうということ。特定のアニメを特定の人が見たら心の闇を抱えてしまうというとんでもない発想に根拠はあるのか。たぶん何らかの統計を取ったわけではないだろうし、自分勝手な想像であるだろうと自分勝手な想像をする。

 

日本のアニメの主人公は中高生が多いし学校生活を題材にしたものが圧倒的だ。たしかに社会人になってしまうと経験は千差万別であるが、中高生ならかなりの比率の人たちが共通の経験をし記憶にも残っている時代だろう。実体験は感情移入がしやすかったり、引き込まれてしまう大きな要素になり得る。実際に私が「聲の形」を観たのは大垣市が舞台だったということが要因で、縁もゆかりもない地域の話だったらわざわざ映画館まで足を運ばなかったかもしれない。なので実体験要素を含めるというのは商売的に影響が大きい。もちろんそれだけで売れるものではないが、学生生活や過ごした場所、勤めた業種、やっていたスポーツなどが絡んでくると興味がわくのが当然だ。

 

以前「半分、青い。」の感想で書いたことがあるが、作品の製作に1人の目が行き届くのは小説と漫画が限界だと思う。アニメや映画になると関わりが多くて監督の意志さえ全部には届かない。1監督が主題歌のアーティストに歌詞の変更を言うだろうか。1監督がすべての声優の配役を決めるだろうか。スポンサーの意向や制作会社の意向で高校を舞台に製作すると決定されたらそこを覆す人はいないだろう。アニメ制作に係わるほとんどの人に、現状多いジュブナイル的な設定に異を唱えてまで別の作品をつくる権限や力はない。でも商売的に少しでも高い可能性のところを攻めることは当然である。アニメ制作会社も食べていけなくては始まらない。そういう意味でまず京都アニメーションに罪はない。50才男性郵便局員の奮闘記とかだったらどの層が観に来るというのか。

 

アニメ産業が大きくなる要因としてターゲット層の広さもあっただろう。日本人の幼児性とかもあるのかもしれないが中高生が題材でも抵抗感がない年齢層は広い。30~60代でもアニメに抵抗の少ない層も広がり、これからジュブナイル的ではないアニメが製作される土台は出来上がりつつあるのかもしれない。今は学園物のアニメで力を蓄えているが、画期的な構想や野望をもって日々目の前の仕事をしていたアニメーターもいたかもしれない。誰もが学園祭的なアニメで満足していたわけではないと思う。コアなアニメ支持者の大きな支えを得るための必要な過程であっただけで、まだまだアニメは進化しジャンルも増やせると思う。

 

誰の心にも健全で提供できるエンターテイメントなんてどこにもない。アンパンマンですらバイキンマンをぶん殴っているわけだから。バイオレンスな作品ならいじめや暴力を助長する、エロ描写なら性犯罪を助長する、犯罪を扱えば模倣される。どんなことにも自制や法律の抑止は必要だ。でも経験できなかった学校生活の夢を見せたら熱狂的なファンになり、それが理想から外れたら凶暴的な殺人鬼になる者のことまで考慮しろと言われても、そんな異常者のために作品の妥協をする理由はない。自分が経験できなかった理想の体験をアニメで見させられ続けたら、それ以外を悪とするデリケートな人格が出来上がるなんて心理学的な根拠はあるのだろうか。すべてのエンターテイメントがその危険性をはらんでいるといえるが、それは観る側の責任だろう。学園アニメには精神的18禁とでもしなければならないのか。そもそもアニメをフィクションではなく理想の現実と考えてしまうような人格が、満足いく学校生活を送れていなかった人間に形成されてしまうという理屈が幼稚だし、ほとんどの人間がバーチャルとして感情移入しているだけだと認識して作品を楽しんでいるはずだ。

 

反論をまとめると、学園ものという設定が暴力描写や性描写のように危険を助長するため配慮をすべき事柄と同列ではないということ。こんなことまで人格形成への悪影響や弱者からの搾取をしているような扱いをされたら表現の自由なんて全くない世の中になってしまう。なんでもかんでも、ましてや事が起きてからこじつけたような理論は通用しない。同じことを今回の出来事が起きる前に論じてたとしたら評価は違っていたかもしれないが、怒りの矛先が完全に間違っている。

 

この文章を製作中に容疑者の意識が戻るとうニュースが流れてきた。起きてしまったことなので今後同じようなことが起きないようにすることが最も大切だ。理由は何なのか、どのような背景でその理由に至ったのか、生い立ち等を踏まえ慎重に解明すべきだろう。