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M-1グランプリ 2018 / ジャルジャル トム・ブラウン 立川志らく

ジャルジャルの「国名わけっこ」は自分的には歴代M-1屈指、笑い飯の「奈良県立歴史民族博物館」以来の衝撃だった。準決勝の動画で既に見ていたのだがそれでも面白かった。終わり間際にやった絶対できない連続問題の前に10個くらいでやって見せても面白いのではないかと思ったが、やりすぎると面白さより上手さが勝ってしまうだろうか。母をたずねて3ゼンチンは必要か?良かった漫才ほど、こうしたらどうかと考えてしまうのが自分の悪いクセである。

 

あとは初見のトム・ブラウン「中島ックス」も良かった。なかなか5人中島が揃わない。中島みゆきやキムタクを混ぜたときのアイデア。惜しかったのは最後に中島が揃ったときのオチの弱さ。すべての漫才に言えることだと思うが最後のオチは大事にしてほしい。最後に大爆笑で終えるか大スベりで終えるかの博打より、綺麗に終わらせた方がスマートに見えるような流れに持っていくのはむしろダサい。最後の最後まで狙ってほしい。特にM-1ならば。

 

今回は特に安定的に笑いを生み出せる実力派の割合が多いと感じていたが、最終的には初出場・最年少の霜降り明星が優勝し、平成最後にして時代の変わり目を見たかのようだった。霜降り明星も実力をつけてきていたし優勝は不思議ではないのだけれど、私的にはそれでも優勝は出来ないだろうと思っていた。というのは今回特に顕著だった理由がある。最終決戦に残った和牛・ジャルジャルは方向性は真逆だけど初めての人が見ても面白いと感じられる分かりやすさがある。和牛はストーリー的で見ている側が感情移入しやすいし、ジャルジャルは理屈を超えた部分で子供でも笑える。霜降り明星の今回のネタは2本とも小ネタの連続を繋げたスタイルだった。豪華客船内や学校というシチュエーションは設定されているもののそこは重要ではない。関連性の強弱は関係なく、面白いものをいかに多く詰め込めんで笑わすか。これは見ている者を選ぶ。ダウンタウンが若者だけにウケればいいというスタイルだったことに似ているが、そのハードルはもう一段高い。ある程度の予備知識と、ある程度の解釈のスピードについて行かなくてはならない。若者のセンスでも一定数はふるいに掛けられてしまう。受け入れられるターゲットを狭めてもそのスタイルを貫いたのはリスクも大きいと思っていた。

 

今回審査員が和牛よりも霜降りを選んだのはどうしてだろうか。両者の笑いをボクシングに例えるならば和牛はずっと渾身のストレートを狙っている感じ。霜降り明星は一見オーソドックスではないように見えて、しっかりずっとジャブをボディに集めていくスタイル。終わったときのダメージが大きいのはあきらかに霜降り明星を見ている方になる。和牛の最後、母親のフェイクというストレートから息子のフェイク返しというカウンター、トドメの親子のにらみ。強かったがあと一歩観客や視聴者をダウンさせられなかった印象。トドメを刺しきれなかった和牛に対し、数多くのヒットを蓄積させた霜降り明星。奇しくも軍配を上げたオール巨人、ナイツ、中川家は1つの漫才での手数が多いスタイルである。そうはいっても上沼、松本、富澤も数は多めタイプだと思うが。

 

審査と言えば2018は志らく発言だろう。彼は人とは異なる着眼点で物事を見られる。それによって日の当たらなかった人物にスポットライトが当てられることもあるだろう。しかし今回は終始「面白くなかったのだが」という前置きが気になった。意味が分からないことが良かったり、観客が盛り上がっていることで評価したら審査員がいる意味がない。観客や視聴者の投票で決めるべきだ。しかしそうすると時の人気や漫才外のことに扇動された票が集まる危険性があり、純粋な面白さの勝負ならない結果になることがある。それを少しでも公平になるようジャッジするための審査員だろう。もちろん審査員も1人の人間なので好みもあればセンスも異なる。でもそこで面白いかどうかの主観性を放棄してしまったら、あなたを笑わそうとしている芸人に失礼だと思う。全く面白くないのなら0点にすべきだし、ましてや観客の反応だけで採点するなど素人以下である。そういう意味では上沼恵美子は主観性を貫いていた。多勢の意見と異なる場合があったとしても評価を変えてはいけない。今回引退宣言をしたようだが、たとえ観客の反応が理解できなくても、見ている目の前の漫才だけで判断するという意思をもった人が審査員をやってほしいと思う。

 

ゼンチン、ドネシア、ゼンチン・・・思いついた経緯が知りたい。