Quinoss.com

物語の感想やニュースの意見等々を更新しています

プリンセス駅伝の出来事について

 

ニュースを見るといつも思うことがある。殺人と殺人未遂で罪の重さが異なることには違和感がある。被告の行動や心情が影響して未遂になった場合は酌量の余地はあるが、運よく被害者が亡くならなかった場合でも未遂の方が罪が軽くなるのは納得がいかない。あくまで被害の重さで判断するのが司法ならそれは民事の部分であり、刑事としては行為と動機だけで裁くべきではないだろうか。運の良し悪しで行った行為の罪は変わらないはずなのだ。

 

 

今回も選手擁護の意見が多く見られる。ただ日大アメフトのときと比べるとあれほどまでには偏ってはいない。今回は選手や監督に罪を着せるのは確かに可哀そうではある。しかしこの事案そのものはもっと無視できない検証すべき出来事だと思われる。

 

選手がアスファルトの道路を200m以上を四つんばいで這う姿は異常である。しかもすねを骨折している状態でである。称賛だけで良いと思っている人は一度自分でやってみたらいいと思う。間違いなくしばらく歩行は出来なくなる。これを美談で済ませていたら日本はおかしい国と思われても仕方がない。ただ今回は監督が何度も棄権を伝えていたことが唯一の救いで、その伝達が何故届かなかったのか徹底的な検証は必ず行わなければいけない。そうでなければ今後選手の健康や選手生命を犠牲にするような大会は行ってはいけない。

 

選手が意地になって這いつくばった気持ちは分かる。団体戦とはいえタスキさえつなげばこれまで個々で頑張ってきた各個人の成果は見せられるからだ。仲間のために自分は走れなくなってもいいとさえ思ったのではないだろうか。でも仲間の努力と引き換えにするには重すぎると思う。この先この大会での成果で飛躍出来た選手がいたとしても、仲間を犠牲にしてしまった罪を背負っていかなければならなくなる。繰り上げスタートの勇気を大会側は持たなければならない。チームとしての結果より1人の選手生命を優先すべきだろう。

 

監督の行動は正しかったと思う。でもその意思が伝わらず選手が身を削っていては元も子もない。チーム側は意志の伝達がスムーズではないことを知っておくべきだったし、大会運営側は不備を認め運営方法の見直しが必須である。事が起こらなければ気づけないと言われればそれまでだが、そうなると常に最初の犠牲者は選手でありその努力もあだとなって降りかかってしまうということになる。

 

日大のアメフトの件もそうだし、今回のことでも思ったが選手の被害の大きさを最大に仮定して議論をしてほしい。結果大丈夫だったとしてもタックルで半身不随になっていたかもしれない。今後走ることはおろか歩行すら出来なくなるかもしれない。タックルした選手には悪意がなかったとか、這いつくばってタスキを渡した選手に感動したとかだけでよいなら、今後発生する同じような事案で選手生命が絶たれたり本当の生命が危険にさらされたら、その責任はこのことをないがしろにした人々にあると言わざるを得ない。美談で済まそうとしている人々は軽々しい発信をしない方がいい。

 

分かりにくい罪も暴かなくてはならない。選手のために。またぶり返して申し訳ないがタックルした選手の心は誰も分からない。本心か嘘か。指示を受けたか指示を受けたふりをしたか。何も思わなかったか大事になるかもしれないと思っていたか。分からないなら罪はないというなら今後同じような行為で死人が出ても仕方がないと済ますというのだろうか。最悪を想定してみれば復帰を許可するのは罪が軽すぎると思わざるを得ない。今回の大会でも監督側はこの運営の欠陥に気づいておく責任は少なからずあったと思う。事故があったり今回のような選手の意志で危険を冒す場合の、指示伝達経路は確認しておかなければならなかった。でもここまで伝わらなかったのはおかしいとは感じるけれど。

 

選手の健康や生命を犠牲にした上で成り立つスポーツはおかしい。全力でプレーをしても危険がないルールの中で競い合えるようにするべきである。昨今話題によく挙がる高校野球のピッチャーの長時間投球の問題も同じである。エースピッチャーに命運を託し過ぎているチームにとっては投球制限は不利になってしまうが、そもそもルールとは制限であり誰かが有利になることも誰かには不利に働いてしまう。その制限の中でどう立ち回るかも強さの要因となり、ルールが変われば戦力・戦術は変えて行くしかない。他のチームや選手より早くそのルールに対応することで、単純な体力勝負だけではないスポーツの面白さにもつながる。人間とは制限があるからこそ努力できるのではないだろうか。