小さな日本社会のバランスがおかしくなり始めて、その歪みに起こるべくして起こった出来事。これまでに公になっていないものもたぶんあるのだと思う。
事件の驚きとして挙げられた殺害理由。遺族への死亡経緯の説明が嫌だから。自分の勤務時間外に患者が亡くなればそれを回避出来るため、時間差で何十人もの患者の命を奪ってきた。確かにひどい話だ。という簡単なことではないと思う。
「コミュ障」今では自己紹介に使うほど気楽なネット・若者スラングになっているが、本来の意味としてはそんなお気楽な言葉ではない。自力で治せない医学的なサポートが必要な障害を指す言葉である。中には鍛錬で治せる場合もあるかもしれないが、目に見える傷とは異なり怠慢なのか病気なのかも分からないまま抱え込んでしまっていることがほとんどではないだろうか。
人口減少、核家族化、未婚率の上昇、プライバシーの尊重。平成の日本で少人数や個人を保障してくれる社会が出来上がった。個人の自由度が増した。私も田舎の人間だが子供の頃は親世代が当たり前のようにやってくれていた祭や廃品回収などの行事ごとも、人口減少で消滅した。大人になってかつての大人がやっていたことをする必要もなく、子供会などの組織も昔に比べれば学校行事に付随するものくらいで、バスを借りて海に行ってみんなでスイカ割りなんてしない。そもそも子供がいない。休日は各人、各家庭で過ごすことがほとんどになった。
個人保護、コミュニティー障害、病院。私は日本のこの3つが重なる場所で重篤な圧力が掛かり、大変な思いをしている人々がいるのだろうと考えてしまう。決して犯人を擁護したいわけではないが、今まさに圧力が掛かっている人たちは辛いだろうと思う。
高齢社会になり1人あたりの死に関わる割合は高くなった。葬儀に出る頻度はむしろ減った。そんな親戚内の話ではなく、実際人の死に仕事として携わる病院や葬儀社の方々の話。そこで実務として働いている方々は20~40才台の人が多いと思う。言いたいことは薄々気づかれていると思うが、就職氷河期世代以降の背負っているものが重すぎるということだ。近所のうるさいおっちゃんおばちゃんが出しゃばらなくなり、野球チームの怖い監督を掻い潜る必要もなくなり、家では働け、行事に出ろ、結婚しろと喚く親もいない。みんな個人を尊重し、ワザワザ嫌われ役を買って出る奇特な大人はいなくなった。若いときは買ってでもするべきだった、昔の人は強制的にさせられていた対人的な苦労をしなくてもよくなった。する機会がなくなった。
個人保護が確立され、組織やコミュニティーでの立ち振る舞いの経験値を得られない若年期を過ごし、社会に出たらあまりにも少ないクジを引かされ振り分けられた先で、次々と人の死を押し付けられる。この状況で、このコミュニケーション能力で対応出来ない理不尽なキャラが更に行く手を阻んで来たら、果たして立ち向かう精神力は残されているだろうか。いや、人の死が尊いものだと正常な判断が出来るだろうか。
当直の看護師が死亡経緯の説明をする。これが普通なのだろうか。経験もあり説明出来る看護師か医師が交替でならまだわかる。すべての看護師に平等だったとしたらむしろ恐ろしい話である。皆がやっている仕事、出来ないとは伝えられない、辞めたいとは言えない。コミュ障と自覚する性格、交渉なんて拒絶なんて出来ない。他に行く場所もない。病院には理屈は通らない。他人の末期のお世話を交替でこなし、最後の説明はルーレット。上辺だけでも大変な仕事。当事者の方々の大変さは軽々しく言えないくらい辛いものなのだと思う。
それでも、そんなキツい仕事でも立ち向かえる人もいる。それはその人の努力、そして育った環境、周りにいる人、持って生まれた能力を運よく持っていた人だと思う。誰かがやらなきゃいけないキツい仕事を、貧乏クジを引かされたコミュ障の世代がすべてを抱えきれるわけがない。ましてやもうすぐ親の世代。戦争の苦労もなかった人数だけはやたら多い団塊の世代達の容赦ない死の波がやってくる。世の中のシステムを根本的に変える術はあるのだろうか。