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聲の形 感想① 差別心

 

この作品も期待値は髙かった。漫画の前評判や岐阜が舞台等があり、映画館へ足を運んだ。「君の名は」と同時期の上映で完全に埋もれた感があったが、会場はざわついた熱気があったのを思い出す。あれから2年近くが経ち、今回24時間テレビ裏のEテレで放送された。あえてそのタイミングでの放送なら、普通に民放で流してほしかったというのが正直なところ。この映画は障害者を助けようとか、いじめはいけないとかを主題にしてはいない。感性の異なった未熟な児童たちが犯してしまった罪を、高校生になった彼らがどうやって消化していくかを描いた作品である。今回の放映に対しての的外れと感じる批判について記しておきたい。私自身はこの作品の信者でもないが気になった事がある。作品の中の1つのことに対して、自分の価値観と異なると全否定し酷評する人々。しかもそれが的を得てないという残念さ。さらにそれを吹聴する。こんなことを書いている私も同じ穴のムジナだけれど、毒を以て少しだけ毒を制したい気分なのである。

 

まず「いじめの加害者と被害者が付き合うなどあり得ない」とか、「被害者は一生恨み続けるもの」という指摘。過去いじめの被害に実際にあっていたと見られる方々が書いていた。それは正しいと思う。世の中のいじめの99%以上はそうだと思う。加害者は悪意をもっていじめているだろうし、被害者は完全犯罪が可能なら加害者を殺してやりたいくらいの恨みを持ってもおかしくない。確かに流れは全く以て現実的ではない。ただこの映画はそこに該当しない偶然の1%未満の組み合わせで起こった出来事を描いている。いや描いていると思って観る作品である。奇跡的なことが許せないなら、フィクション作品のほとんどが受け入れられなくなるし、現実の世界にも確率の低い奇跡的な出来事はある。実体験と違うからおかしいというのはナンセンスである。それに石田のような人格は奇跡的だと思うけれど、いじめに少し手助けの部分があったり、後に重大性に気づいたり反省したりという人間は少なからずいると思う。これはフィクションであり、すべてがリアルな作品ではない。いじめの加害者や被害者の感情がよりリアルな、いかにもといったキャラクターであることで映える作品ももちろんあるが、この作品はそうではない人格を持ったキャラクターが起こしてしまった出来事のその後の葛藤が本題で、反省も後悔もしないキャラクターを主人公にしたら何の面白みも無くなってしまう。「聲の形」はドキュメンタリーではない。あなたをいじめた人と石田は別人である。アニメにすべてリアルを求めるならば、既にアニメの時点でリアルではない。西宮の髪がピンクなことを説明してくれ。都合の良いところだけリアルを求めるな。このアニメにおける「石田の人格でいじめを行ったこと」と「西宮のピンクの髪」は同じである。そこはスルーすべきことなのだ。キン肉マンのキャラがいつの間にか生き返っていることも同じ。物語を楽しむための基本スキルだと思う。

 

それから前年に話題になった「感動ポルノ」という言葉。いまいちしっくりこないが言いたいことは分かる。24時間テレビがいき過ぎたドキュメンタリーであることも賛同する。ただし24時間テレビを肯定するか否定するかで言えば肯定だ。よくギャラをもらって出演しているタレントを非難する記事を見ることがある。日本テレビはその分も募金にあてろといった主旨である。これが募金からギャラが出てたら大問題だけれど、タレントにギャラを払うが募金も全額寄付なら問題ないと思う。功罪はどうしても出てくる。毎年一部だけ見ているが、集団でのステージを見ていると嫌々やらされている子供もいるだろうなとは感じる。ただ24時間テレビがもしなかったら、様々な障害で苦しむ人がいることすら気づかないかもしれない。共感を得て大きなスポンサーがついて、何万人に1人の障害をもってしまった人が救われるかもしれない。年に一回の営業活動を「感動ポルノ」と蔑むことは私には出来ない。「聲の形」も障害を描かなければここまで多くの人に認知される作品になったとは思えない。高校生の葛藤を描くための1つの要素にすぎないが、その有無によって大きく変わる。ある意味障害を利用した感動ポルノの1つではないだろうか。それでも良いと思う。物語が面白いと感じるため、宣伝効果のためにほとんどの物語はショッキングな出来事を前面に出し起点にする。もちろんやってはいけない線引きは必要だが、これを否定されたら刑事ドラマも学校ドラマも作れなくなってしまう。

 

話は変わるが差別心について。差別心とは自分と異なるものを区別して防衛するための本能なのだと思う。自分が属していない特に少数派について嫌悪感を抱いたり、排除したいと思う気持ちはみんな持ち得るものなのだと思う。これを理屈で封じ込めることが出来るのが人間であり、それもまた自身の防衛行為なのである。いつ自分や身内が少数派になるか分からないから。それでも心が疲弊してたり、扇動されたりして差別心は顔を出す。気持ちが悪いと思ったりする。これを回避するには少数派を少数派に感じない、非日常を日常にする手がある。お互いの効率のために学校では健常者と障害者は別になっている。社会でも障害者は福祉施設で働くことが多い。他人に迷惑を掛けたくない、掛けられたくないという理由で別々に生活している壁を壊せばいいと思う。そうするとお互い面倒なことが降りかかってくる。その代りいつしか自分のまわりに健常者がいる、障害者がいる生活が当たり前になってくるはず。極端な妄想話。極論だけれど本当はこれが望ましいと思う。正直なところ例えば「ろう者」の方が話されるとき、程度にもよるが聞き取りづらく気分が悪くなる感覚がある。失礼だし、そう感じる自分が情けないと思う。24時間テレビを見るたびに思っていた。今回は2回目の「聲の形」をテレビで観たあとで24時間テレビを観た。前前前世に合わせてオタ芸ダンスを披露したろう学校に通う生徒たち。素晴らしかった。涙が出そうだった。そのあと生徒の女の子が感想を話し始めた。するといつもの感情が消えていた。独特の聞き取りづらさは変わっていないのに気分が悪くならない。すぐに西宮の声と同じだと思った。初めて映画を観たときも2回目のときもまだ非日常的な違和感がくすぐる感覚があったけれど、女の子の話し方にはその感覚は消えて、ただただ聞き取りたいという思いだけだった。西宮役の声優が上手いというのもあると思うが、たぶんその独特な発声に慣れたのだと思った。ろう者の人が身内にいなかったり、まわりにいない場合は交わることはなく彼らの声に耳を傾けることがない。その機会が日常に溢れる社会が本当は健全なのだと思う。

 

とはいえあれだけ人種が混ざっているアメリカでも、白人至上主義がなくならないのだからやっぱり差別心というものは本能なのだと思う。人々は性悪説に基づき差別心を押さえるために、日々鍛錬や工夫をしなければならないのだろう。

 

全く映画の中身に触れていないので、次回はそこを記したいと思う。映画館と家で観た場合の違いなど。